2013/02/23

NIKKI『おやじの命日30年』

あれから30年も経ったなんて、なんだか不思議な気持ちだなあ。
あのときおやじは55歳で僕は20歳、お兄は24歳で母は50歳。つまり今の僕はあのときの母と同い年で、おやじより5歳年下。
公務員だったおやじと美容室を営む母のことを、しっかり働いてくれるありがたい両親だと感じていた。
パソコンもケータイもない時代、家族団らんの時間といえば居間でテーブル囲んでテレビ観るぐらいだったけど、おやじと観るテレビにはどこか緊張感があった。
おやじの機嫌がよくないときは、基本的にテレビはNG。機嫌が普通のときはNHKと巨人戦が許され、ご機嫌だとドリフと歌番組が許可された。
しかしおやじの機嫌は秋の空のごとくコロコロと変わる。
ドリフを観て、僕が調子に乗ってカトちゃんのギャグを解説すると、「そんなもん詳しくなるより漢字の書き取りでもしとれ」。長島がチャンスで凡打すると「巨人が勝っても負けてもおまえの人生には関係あらへん」。
よくもまあ長島の一打席でこんなにも機嫌が変わるもんだと感心したものだ。
こんな劣悪なテレビ環境下にありながら、誰よりもテレビを観て、ラジオを聴きまくれたのは奇跡と言える。
ビデオなどないから、おやじが寝静まったことを確認してから、ゴールデンタイムにテレビを観られかなったウサばらしに11PMを観て、テレビ放送が終了するとオールナイトニッポンを聴いて思春期力を増大させた。
6年生で睡眠時間は6時間を切り、中学に入ると空が明るくなるまで起きていた。
テレビを観させてもらえない夜はジャージに着替えて教科書もって、「小瀬まで走りに行って、帰りに真ちゃんとこで勉強してくる」と母に告げて玄関をでた。
「テレビの勉強やろ。2時間で帰ってこやあよ」。母親、お見通しなのである。
ちなみに小瀬とは、長良川のことを指し、家から5キロの距離にある。陸上部の僕にしてみると往復10キロというベストなランニングコースだった。
陸上の成績はそこそこだったから、おやじも夜練には寛容で、しかも帰りに友だちと勉強とは感心!と思ってくれていたみたいで、�案外ゴマかすのチョロいもんだな″とタカをくくっていたら、ある日、母親に�おとうさんお見通しやよ″といわれドキッとした。
その真ちゃんも19歳で死んだ。
おやじより7ヶ月前のことだった。

30年目の日におやじのせいでテレビ観れなかったことばかり書くのはなんだが、思い出というのは時間とともに美しく茶目っ気たっぶりな記憶に昇華していくから不思議だ。
したがって、今現在の思いとしては、とっても素晴らしいおやじとの思い出話を書いている気がするのである。

気がつけば50になった僕は、やっぱりNHKと巨人戦以外、ほとんどテレビを観ていない。